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BROSS TOKYO STAFF DIARY [Bross]

Augmented Mask


Tobias Klein


10 July - 25 September, 2017

Opening night reception + launch of publication: 10 July, 19:30 ? 21:30






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[コピーライト] Tobias Klein, 2017. Augmented Mask, Mixed media. Courtesy of The Container, Tokyo.



「アートとは、新しい宇宙の空間と時間を構成するコミュニケーション・コンピューター・視覚空間・現実空間・自然・人工生命の融合から出現するサイバースペースである。この新しいネットワーク環境は我々の知覚を増大させ、人類の文化と意識へと新たな形而上の寸法を与える。これに従い、知識の新規様式とそれの分配は試され拡張されている。」

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? ロイ・アスコット著「From Appearance to Apparition: Communication & Culture in Cyberspace(出現から幻影:サイバースペースにおけるコミュニケーションと文化)」、1993年

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この惑星での人類の誕生から、アートと科学は絶え間なく生命と自然における真実・価値・美しさを探求しながら持続的に絡み合っています。人類の文化と形式を継続的に再定義する為に、これら二分野の関係は、自然と人工・秩序と無作為・現実と虚構の境界での緊張の区別へと、哲学への関心を共有しています。

20世紀に入り、アーティストはテクノロジー(技術)を模索し始めたが、第二次世界大戦の後には更に大きな移行が起こり、そして再び70年代にはテクノロジーを基盤としたアートの美に注目する多くの評論的で哲学的な論文や随筆と、観覧者と作品の相互対話が盛んな中で再び発生しました。その多くはしかし、哲学的な明晰さにもかかわらず、常に動き続ける技術が偏在する生活の中で、何故か現在は無関係です。

私達はテクノロジーとの対話法と、それがどの様に社会構成に影響を与えるかを更に多く知っています。しかし、これは世界で指数的に変化しており、一つだけ普遍な物は人生、文化、コミュニケーションの意味を再調査し再定義する事への、我々の芸術的で科学的な努力です。変化する世界での真実と形状への絶え間なく続くこの捜索と、それとの対話へのアーティストの冒険は、アートの本質を描写しています。

Tobias Klein(トビアス・クライン)とは2年前に出会い、テクノロジーを文化的・概念的・美的に模索するアーティストとしての作品と心掛けへと即座に興味を持ちました。しかし、クラインの作品への興味は、観覧者を引き込む為への増強するバーチャルリアリティ使用の試みを二人で討論してから増幅しました。クラインの作品での技術方面への私の理解の欠如とは裏腹に、芸術的で相互会話的な作品と現代アートを更に包括的で理解し易くする試みへのキューレーターとしての興味は、非常にクライン当人と同様です。

我々がThe Container(コンテナ)にてプロジェクトへのアイディアを出し始めた時に、クラインの中国戯曲への関心に興味をそそられました。戯曲とは、動作、歌唱、クラシック曲、視覚構成、デザイン、演劇、語り物の他には見られない合併物であり、観覧者を肉体的、精神的、理知的に感覚上の経験へと浸らせる、人類が発明した最も網羅的で学際的なアートの表現です。その他多数のアートの形式と同様に、戯曲は数百年以前から存在しており、その豊かな歴史は非常に大きな文化的、社会的、政治的、美的な重要性を運んでいます。

The Container(コンテナ)でのクレインのインスタレーションAugmented Mask(増大するマスク)の語り口は有名な広東戯曲のThe Flower Princess(花の公主)を反響しており、これは高く評価される劇作家の唐滌生 (1917-1959) による著名な作品であり、唐の劇作家の経歴で最も活発だった時期に初演され(1957)、香港では現在でも一番の人気作品となっています。崇禎帝(スウテイテイ)の娘であり、周世顯に忠実を誓う公主の長平の悲劇的な人生が大本である恋物語となっており、劇の最後には悲壮な恋人2人の自殺と明王朝の崩壊を年代記としています。多くの評論家は戯曲と香港の文化と政情不安定の物語間の比較を描き出しているが、クラインは観覧者へと作品を見る中で活発的な役割を与える事に関心を持っており、女性と男性の機構実体の間でのサイバーネティック対話が行われたロンドンのICAでの1968年の展覧会Cybernetic Serendipity(サイバーネティック発掘)へと構成された英国のサイバネティスト作家Gordon Pask(ゴードン・パスク)の重要インスタレーション作品Colloquy of Mobiles(モバイルの会話)のポストジェンダー特殊性に共感を示しています。

Augmented Maskでは中国戯曲マスクの二つの精巧な実大モデルが見られ、これらは伝統的な戯曲と関連付く豊かな象徴性と隠喩をそのままの形で保ちながらも細密なデザインと白度で著しいです。マスクの一つは3Dプリントで作られ、the Containerにてオブジェとして存在します。もう片方はバーチャルリアリティとして単独で存在しており、これらマスクの蒼白さの比較は、閲覧者によって引き起こされ活発化される位置付けられた投影であり、積層性と実質性を加えています。この従事は複数のレベルで発生します。ヘッドセットからアクセスするバーチャルリアリティでは、観覧者はそこでの俳優であり同時に訪問者となります。訪問者の身体動作はスキャンされ、訪問者自身が1人を演じるキャラクター2人の間でのパフォーマンスへと追加されます。戯曲と類似しており、仮想空間での遭遇は舞台の連続を通して演出され、日出から日没までの1日の循環を示しています。風景は会話とマスクが相互に作用している事を表しています。徐々に観覧者は一つ一つの行動がマスクとの対話がさざ波のように広がっていく事を認識し、自殺の語り口の演技での役割に気づきます。当インスタレーションはThe Flower Princess戯曲での大詰めを再上演し、環境と観覧者の動作を通して登場人物同士の会話を容認します。男性と女性キャラクターの間での会話は、観覧者による促進操作を通じて容易になります。この幻影は継続する会話でのマスクに投影された相互作用による物です。VR内での会話は観覧者へと投影されます。この遭遇はプレイヤー又は役者を見つめるもう片方のマスクの視点から見られます。訪問者・役者と観覧者の間での観点の移り変わりは、参加と観察の間の演出された議論を設定し、ゴードン・パスクの作品のサイバーネティック・フィードバック・サイクルへと関連付いています。

二つ目の特徴はバーチャルリアリティ内とVRヘッドセットを通して出会う個人観覧者間でのテレビ上会話、そして3Dプリントされた物質的なオブジェへと直接に投影される会話のマッピング(図面化)です。この作品は会話を擬態するだけではなく、観覧者の動作を通じて個人的な解釈を許容させており、これはマスク上の一致する部分に入念に重ねた投影によって援助されています。

会話は7部分で構成されており、歌唱、聴取、クレッシェンド(次第に強くなる)としての合唱・聴取せずの非協調的な歌唱、これらコミュニケーション法4つの中の一つの形式を取ります。VR内の風景での景色の移行と、そして朝から晩までの自然日周期が遮られぼんやりとしている構成された瞬間を通して解釈され、静かなハミングへと戻る前に、投影されるモールス信号の強度を点滅する赤い投影の形として締めくくります。

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当インスタレーションの強みは相互作用であり、そしてキャラクター間だけではなく、最も観覧者と投影による会話です。観客にバーチャルリアリティ・テクノロジーを使用させ、それぞれの動作と戯曲への反応を通じて場面をまたは演じて作品の不可欠な一部とさせます。効果的に観覧者をインスタレーションの見物人と進行役として解釈しています。

引き起こされるVR環境は鮮明で没頭させられます。海辺に乗った山岳風景を再構成しています。この場所は会話と決断の瞬間の間に立っているという事で選ばれました。風景は荒く、中国の水墨画の風景を再構成しています。マスクは生存生物として場面と繋がっており、3Dでスキャンされた(Kinec/キネクト)訪問者の動作で作動します。投影の質感が変化する中で、装飾されたマスクは生きており有機体であり、自らで実在となります。VR内では役者である全ての観覧者の動きはスキャンされ、風景とマスク全ての行動は役者や観覧者によって引き起こされます。デプスカメラを使用して動作の方向と手ぶりが捕らえられ、マスクの複雑な装飾と風景の質感に巧みな移行を引き起こします。音は観覧者の動作によって均一に増加され、引き込む対話の効果と要素へと転化されます。時には誤聴したかの様に微かで、時には非常に強烈な、このインスタレーション・アート作品へと特別に作曲されたこのサウンドスケープは伝統的な広東戯曲への応答ではありませんが、しかし技術的な設定でのマスクと風景の関係性の再定義を追求しています。

The Containerで開催される当展覧会の主要部分であるコーディングと、複雑な技術過程への私個人の技術的な理解が乏しい為に、クラインのAugmented Mask作品へと圧迫されましたが、クラインの技術に対する情熱とインスタレーションの相互作用によって説得されました。特に人間と機械の関係、そして現在の技術が発達した時代にその様な関係がどう私達に影響を与えるのかに引き込まれました。モノのインターネットが急激にありふれた物になり、人工知能とデジタル論理(機械の道徳)が人間性の将来への主要素として現れる時代で、当展覧会は技術だけではなく、しかしアートが時代を超えてある中での人類文化として表しています。

Augmented Maskは技術と機械を使用しているだけではなく、これら技術との共同での物語を創り出す事を表現しています。デジタル端末を通し、技術を適応させて人間性と文化へと価値を追加する表しです。

この野心的な展覧会はクラインの断固とした勤勉性と情熱、献身的なスタジオ職人達、インターナショナル・コーダーのチーム、日本のドイツ大使館と文化部門からの援助、そして勿論、ドイツ外務省からの援助無しでは開催する事が出来ませんでした。当プロジェクトへの精勤と資金に対して非常に感謝の念を捧げます。

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?“Art in the cybersphere is emerging out of the fusion of communications and computers, visual space and real space, nature an artificial life, which constitutes a new universe of space and time. This new network environment is extending our sensorium and providing new metaphysical dimensions to human consciousness and culture. Along the way, new modalities of knowledge and the means of their distribution are being tested and extended.”

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?Roy Ascott, “From Appearance to Apparition: Communication & Culture in Cyberspace”, 1993

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Relentlessly seeking the truth, value and beauty in life and nature, art and science have been continually entwined since the commencement of human life on this planet. The relationship between the two disciplines shares an interest in philosophy to demarcate the tension between the natural and the constructed, the ordered and the random, the real and the imagined, in order to continuously redefine form and human culture.

Artists started to dabble with technology at the turn of the twentieth century, but more profound shifts occurred after WWII, and again in the 70s, with many critical and philosophical texts and essays looking at the aesthetics of technology-based art and the interaction between the audience and the works. Much of it, though, despite the philosophical elegance, is somewhat irrelevant today?in a life, where technology on-the-go has become ubiquitous.

We know now much more about the way we interact with technology and how it affects social constructs. But in a world that is exponentially changing, the only invariable is our artistic and scientific efforts to reinvestigate and redefine the notion of life, culture, and communication. This constant search for truth and form in a changing world, and the journey an artist takes to communicate it, delineates the essence of art.

I have met Tobias Klein over two years ago and immediately was interested in his works and his personal efforts, as an artist, to explore technology?culturally, conceptually, and aesthetically. However, my fascination with his works was amplified when we started to discuss his endeavors to use augmented and virtual realities as means to engage with the audience. My personal curatorial interest in interactive artistic works and attempts to make contemporary art more inclusive and accessible seemed very much aligned with Klein’s, despite my lack of understanding in the technicalities of his works.

When we started to thrash out ideas for a project at The Container, I was taken by his interest in Chinese opera. Opera, like no other art, is the amalgamation of movement, singing, classical music, visual composition, design, theatre, and story telling?a sensory experience that immerses the audience physically, psychologically, and intellectually?it is one of the most encompassing and interdisciplinary art forms humans have invented. Like many other art forms, it has been around for hundreds of years, and its rich history carries significant cultural, social, political, and aesthetic weight.

The narrative of Klein’s installation at The Container,?Augmented Mask, echoes the famous Cantonese opera,?The Flower Princess, a signature work of the highly respected playwright Tong Dik Sang 唐滌生 (1917-1959), which premiered during the peak of his creative career (1957), and proved to be an all-time favorite of the Hong Kong audience. It is a love story, loosely based on the tragic life of Princess Cheungping 長平, daughter of the Chongzhen emperor, and her loyalty to Jau Saihin 周世顯, chronicling the collapse of the Ming dynasty and the tragic double suicide of the lovers in the last act. Many critics like to draw a comparison between the narrative of the opera and the political and cultural instability of Hong Kong, but it appears that Klein is more interested in the active role he forces his audience to take while viewing the work, with a nod to the post-gender specificity of the seminal work and installation of the English cyberneticist Gordon Pask,?Colloquy of Mobiles, conceived for the 1968 exhibitionCybernetic Serendipity, held at the ICA in London, in which cybernetic conversations took place between female and male mechanic entities.

Augmented Mask?sees two life-size elaborate models of Chinese opera masks, striking in their detailed design and in their whiteness, while keeping intact the rich symbolism and allusion that associated with traditional opera masks. One Mask is 3D printed and exists as an object in The Container. The other, exists solely in a virtual reality. Contrasting with the paleness of the mask are mapped projections, triggered and activated by the viewers, to add layering and substance. The engagement happens on multiple levels. In the virtual reality ?accessed through a headset?the visitor becomes an actor in the scene and a spectator at the same time. The body movements of the visitor are scanned and added to the performance between the two characters, actively making the visitor acting one of the characters. Similar to the opera, the virtual encounters are choreographed through a sequence of stages, reenacting the cycle of one day, from dawn to dusk. The landscape indicates the setting of the conversation while the masks are interactive. Upon interaction with the installation, the viewer gradually asserts that each movement is rippling through the conversation between the masks, making own movement a role in the act of the suicide storyline.? Alas, the conversation between the male and female characters of the opera is facilitated through augmentations that are controlled by the audience. The simulacra are interactively projected onto the mask into a continuous correspondence, projected through the VR mask. The encounter captures the point of view of the second mask, looking at the player or actor. This shift in perspective between the visitor/actor and the audience poses a choreographic argument between participation and observation ? relating back to the cybernetic feedback cycles of Gordon Pask’s work.


The second feature is the correlation between the mask in the virtual reality and its televised conversation between the individual audience encountered through the VR headset, and the direct projection mapping of the conversation onto the 3D printed physical object. The work does not only simulate the conversation, but through movement of the viewers, allows for a personal interpretation aided by the carefully overlaid projections on corresponding elements on the masks.

The conversation is structured in seven parts and takes the form of one of four means of communication: singing, listening, singing together as a crescendo, and uncoordinated singing without listening. This is translated through the landscape changes in the VR environment as well as through constructed moments in which the natural daily cycle form? from morning to evening??is interrupted and abstracted, culminating with the intensity of the projected Morse code sequence, in the form of blinking red projection, before restoring a silent humming.

The strength of the installation is in its interactivity, and the conversation?not only between the characters?but, indeed, between the viewers and the projections. It enables the visitors, making use of Virtual Reality technology, to become an integral part of the work, reenacting the scene through their own movement and reaction to the opera. Effectively, rendering the audience to be the spectators and facilitators of the installation.

The VR environment that is generated is vivid and immersive. It reassembles a mountainous landscape boarding with a seashore. The setting is chosen as an allegory to a standing point between the moment of conversation and decision. The landscape is rough and ressembles the landscapes of great Chinese ink drawings. The masks are connected to the space as living organism, feeding on movement of the 3D scanned (Kinect) movements of the visitors.

As the textures of the projections are changing, the ornamented masks are alive and organic, developing entities of their own. Using depth cameras, the direction of movement and gestures with hands are captured and triggered into subtle shifts in the masks complex ornaments as well as the textures of the landscape. The sound is equally augmented by the visitors movement and translated into effects and elements of the conversation-?at times subtle and almost and incomprehensible, at times intensively stark. The soundscape, composed especially for this installation, does not replay the Cantonese opera in a traditional way, yet seeks to redefine the relation between mask and landscape in a contemporary technologically inspired setting.

Due to my personal lack of the technical understanding of coding and the elaborate technical processes that are such major parts of this exhibition at The Container, I was intimidated by the curation of Klein’s?Augmented Mask; but, I was won over by his passion to technology and by the interactivity of his installation. I was drawn, in particular, to the relationship between humans and machines, and how, in our day and age of technology, such relationships affect us. In an era where the Internet of Things is rapidly becoming common place, and discourse on Artificial Intelligence and Digital Ethics (the morals of machines) are emerging to be a major factor in the future of humanity, this exhibition is not quite about the technology itself, but rather, as art had been throughout the ages, about human culture.

Augmented Mask?is not about using technology and machines, but about producing a narrative collaboratively with them. It is about appropriating the technology to add value to humanity and culture, through bonding with digital devices.

This ambitious exhibition would not have been possible without Klein’s inexorable hard work and passion, his dedicated studio workers, team of international coders, and without the support, understanding and vision of the German embassy in Japan and their cultural department, and of course, the Federal Foreign Office of Germany. We are greatly appreciative of the hard work and the funding of this project.


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A Blot on the Landscape


片岡純也 / 岩竹 理恵
Junya Kataoka / Rie Iwatake


29 May – 3 July, 2017


Opening night reception + launch of publication: 29 May, 19:30 – 21:30


Publication (catalogue)


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Rie Iwatake, Bodyscape #160111. Collage, 2016 / Junya Kattoka, Ghost in the Sellotape. Sellotape, High Power LED , motor, 2015.


 


若き日本人アーティストデュオの岩竹理恵と片岡純也が作り出す世界は曖昧さに 満ちています。それらはシンプルなかたちだが独特な視点で注意深く入念に作り込まれて います。彼らのインスタレーション作品に触れたとたん、彼らの独特な解釈や連想にあふ れた新しい世界へと誘われます。ふたりの素晴らしい才能は日常的な物を再解釈しそれら を理解するための新しい方法を作ることです。


 


岩竹と片岡によるシンプルな技術と装置の魅力はメディア・アーティストとして 世界的に評価されましたが、彼らは最先端のテクノロジーを使うことには興味がありませ ん。彼らの取り組み方は謙虚で抒情的であり、電球・紙・地図・ポストカード・セロテー プ等の身の回りにありふれた物の再考察をし、それらに新しい文脈をもたせます。彼らの インスタレーション作品は回り続けている物が多いが、それらは機械的な作品にもかかわ らず有機的なかたちを留めようとしています。平面作品やミクストメディアの作品では他 に比べることのできない彼らの独特な雰囲気を漂わせています。岩竹と片岡はアーティス トというよりも視覚的詩人といえるでしょう。


ふたりのインスタレーション作品を見ていると、入念に組み合わされた装置とイ メージの関係に驚きます。丁寧に作られたイメージの細部には、伝統的な日本美術に特有 の緻密で繊細で潔いシンプルさが見られます。優雅で細やかな感受性に響く作品は三次元 の視覚的な詩を作り出しています。彼らは日常的な物を注意深く観察しそれぞれの特徴や 内包する構造に注目し、その物が本来持つ機能や社会的な意味を取り除きます。岩竹と片 岡は身の回りにある物を再発見し作品化します。


このたび The Container では、岩竹と片岡による展覧会「A Blot on the Landscape (景色のにじみ)」を開催します。鑑賞者を不思議な景色で別の世界へ誘い出し、直感的に好 奇心を引き起こし、そして入念に作られた物語へと導きます。本展覧会は、片岡の「Ghost in the Sellotape (2015)」と岩竹の「Bodyscape(2015-2017)」により構成されています。


セロテープの表面を投影する作品「Ghost in the Sellotape」は東アジアで広く紹 介されており、2017 年 3 月に香港アートセンター主催による the 22nd ifva Festival and Awards にてメディアアート部門の金賞を受賞しました。この作品では、セロテープの表面 に見られる気泡に焦点を当て、レンズを通し LED により投影されています。セロテープは モーターによってゆっくりと巻き取られて動いてゆき、投影された像は刻々と変化してゆ きます。それは月のような惑星を連想させ、気泡は惑星の景色であるクレーターのように 見えます。


「Ghost in the Sellotape」と並べて、岩竹理恵によるコラージュ作品、主に「Bodyscape」 シリーズを展示します。Bodyscape シリーズは春画を使ってコラージュさ れています。岩竹の抽象的なコラージュは、身体の一部が見えているにもかかわらず無人 島の描写のようなシュールな景色を作り出しています。彼女の他の作品と同様にこのコラ ージュ作品は非常にグラフィカルであり、おそらくダイアグラムやリフレクションと共通 するところがあります。これは片岡の投影作品と共鳴して、投影像から浮かび上がる景色 を思わせる有機的なつながりを暗示しています。


ふたつの作品のあいだには妙な緊張感があります。そこには変化し続ける不可解 な空気が漂っています。鑑賞者は全てのイメージの糸を手繰り寄せてゆきます。そして平 面作品と投影作品の関係を明らかにする物語を織り上げるでしょう。そこには別の視点か ら呼び起こされたある種の自然現象の可能性を示唆しています。


The Container での岩竹と片岡の展覧会はメディアの新しい可能性を展開してい ます。鑑賞者は身の回りにある見慣れた物やイメージを再解釈し新しい景色が広がるでし ょう。


 


The world of the young Japanese artist duo Rie Iwatake and Junya Kataoka is full of ambiguities. They carefully construct elaborate, yet simple, environments, unique in their subjectivity and power of immersion. When entering any of their installations, one is instantly transported to a new world—full of associations and personal interpretations of commonplace objects and imagery. Indeed, the duo’s finest talent is to reinterpret daily life objects and visuals, and give birth to a new method of understanding them.


 


Iwatake’s and Kataoka’s fascination with mechanism and simple technologies earned them a worldwide reputation as technology and media artists; though, they are not interested in producing state-of-the-art installations, as one may expect. Their approach is humble and lyrical, focusing on reexamination of familiar objects and visuals—light bulbs, LED lights, paper, maps, postcards, and sellotape, for example—but re-contextualizing them to take on a new meaning. Although many of their installations are mechanized in one way or another, often with a repeated circular motion, they always manage to remain very organic. The works, on paper or in mixed-media, create a unique atmosphere. An air that is inimitable and distinctive in the way the artists articulate spaces. More than artists, Iwatake and Kataoka, are visual poets.


While viewing the duo’s installations, it is hard not to be touched by the carefully assembled relationships between the objects and the images that are staged. There is a beautiful attention to detail and visual attentiveness that is so typical of Japanese culture and art: subtle, delicate, and inspiringly simple. Their objects correspond with elegance and meticulous sensitivity, to forge a three-dimensional intermedia visual poem. They carefully observe daily life articles and focus on their individual characteristics and internal structure, detaching them from their original function or the way they are socially perceived. Iwatake and Kataoka orchestrate the rediscovery of the known and the familiar.


A Blot on the Landscape, the duo’s installation at The Container, creates an otherwordly experience. It transforms the viewers to a different environment, where the landscape is unfamiliar and curious. It instinctively triggers an inquisitive stance, and encourages the viewers to fabricate a narrative to accompany the carefully constructed setting. The exhibition showcases two bodies of work: Kataoka’s Ghost in the Sellotape (2015) and some of Iwatake’s Bodyscape collages (2015-2017).


Ghost in the Sellotape, an LED projector, illuminating a strip of sellotape rotating on a motor, has been shown extensively in Asia and received the Media Art Gold Award at the 22nd ifva Festival and Awards (Incubator for Film and Visual Media in Asia, organised by Hong Kong Arts Centre). The sculptural installation draws attention to air bubbles, trapped between two layers of clear sellotape strips, projected through the circular lens of an LED projector. The tape is slowly rotating on a simply mounted motor, passing through the lens to produce a changing landscape, with the occasional “ghost”. The projection’s resemblance to footage of the surface of a planet, similar to the moon, is uncanny, especially with the interventions of the ghosts, or air bubbles, that look a lot like craters on a planetary landscape.


Juxtaposed with the projection, I have selected a range of Rie Iwatake’s collages, mostly from her series Bodyscape. This series of collages makes use of ‘shunga’ prints (a term used in Japanese to describe erotic art, mainly of Ukiyo-e prints from the Edo period, where images of daily life and sexuality are common). Iwatake’s abstract collages create surreal landscapes, depictions of a no man land, despite the body parts that are visible in some of the works. The collages, like much of the work of Iwatake, are very graphic, resembling perhaps diagrams or reflections. They delightfully contrast the moving projection of Kataoka, and hint of an organic connection—perhaps a close up view of the landscapes lifted from the projection.


The relationship between the two bodies of works creates a subtle tension. There is an air of mystery, a sense of an ongoing investigation, a study. The viewers are there to piece all of the images together, thread a link. At once, spectators feel compelled to weave a narrative to elucidate the connection between the two-dimensional pieces and projection, alluding to some sort of a natural phenomenon from a different world.


Iwatake’s and Kataoka’s installation at The Container displays new possibilities of media use. It forces viewers to reexamine their association with familiar imagery and objects to convey new meanings, and indeed, to create a new world.



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作品を描く方法  |  How I paint some of my paintings

中村 穣二  |  Joji Nakamura

27 February – 8 May, 2017

Opening night reception + launch of publication: 27 February, 19:30 – 21:30


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Untitled, Joji Nakamura, 2017. Acrylic on Paper.


中村穣二は一人のアーティストです。「アートの場」を作らず、美術学校に通った事もなく、そして正直に言えば、美術史や背景への興味も持っていません。しかしそれでも中村はアーティストです。実際に中村は東京の最も理解されていないアーティストの中の一人に違いなく、上手く流行りと停滞を行き来する中で、現在に見られる最も素晴らしい日本人による抽象画を多数制作しています。そして、中村の団欒には年代で最も有名なアーティストが含まれる中でも、中村は用心深くアート・コミュニティーのメンバーではなく、只の友達としての立場を決めています。楽しみの為へと居るのです。

中村は自身をアーティストだと言うでしょう。その中の一人となる事を決めたのです。アートへの興味は、日本を離れカリフォルニア州のサンタバーバラに居住していた間に築いたアーティスト達との友人関係によって引き起こされました。彼らの作品や生活様式に影響を受けました。更に音楽への興味と、不良達との交流を含めたその他自由時間の追求と共に、それは中村の人生と信条へと完璧に適応していました。「アーティストとしての確立」を考えた事はなく、只一人と成りたかったのです。肩書きに付く政治やからくりを抜きに、唯一作品制作の為に。過程に携わる事です。

目にしてきたアート作品や出会った友達に影響され、日本への帰還と共に自分自身の作品を作り始めました。その作品は自発的であり、ペンや鉛筆とアクリル絵具による本能的なマークと、通常キャンバスや紙の表面との感情的な交流で特徴付けられています。その介在は素早くて偶発的、そして流動的です。絵具を使用する際には、筆を使わずに手だけを使用します。結果のイメージは激しく大胆であり、線には体積があり、意思表示の形状は密度があります。大半の作品は単色で、よく黒と白だけを時々青や赤等の追加色と利用しています。

中村の絵画を初めて目にした時、それらの作品は直ぐにジャクソン・ポロックの自発的な絵画方法や、ジャーン・ポール・リオペルの質感と、そしてロバート・マザウェルの構成等の、50年から60年代の抽象的表現主義を思い起こさせました。しかし、中村の作品により親しむごとに、その作品はダダ主義の反体制自動的抽象の表現に根付いている事に気付きました。資本階級への作品制作ではなく、制度と秩序の拒否。この認識が特に過程においての中村の作品を更に面白くさせました。どの位の期間で制作し、どの程度の時間がかかり、それを何処で作り、どの様にして変更するのでしょうか?

The Container(コンテナ)の展覧会へと中村穣二を招待した後に、この展覧会では中村の制作過程への洞察を紹介するべき事が明確になりました。中村の「美術界」への参加に対する不本意な感情と自発的な技術は、何故中村はアーティストであり、そして新しい観念を確立させる新しい手段での観覧者への作品提供を理解する助けとなります。

The Containerでの展覧会How I paint some of my paintings(作品を描く方法)の合てる焦点は、中村の衝動的で直感的な作品制作の過程です。スペースの内部の壁は紙で覆われ、約177cmの高さと1,150cmの長さの引き続く表面を作り上げており、アーティストはその上へと、精神的な儀式にもよく似たプライベートなパフォーマンス形式で、1日を制作に費やしました。このパフォーマンスはビデオに収録され、中村の絵画と作品制作との個人的で親密な関係への洞察の提供、そしてアーティストとしての作品との感情的で物質的な関係を記録しています。

この展覧会で展示されている様々なサイズの用紙上へのアクリル画は、コンテナ内部でのアクション・パフォーマンス中に中村が主に制作した巨大な表面から選択された部分です。皮肉にも、中村にとってこの制作行為は計画的ではなく、変更は別の問題でした。中村はどう作品を切り取るかを丹念に熟慮し想定しました。決断を下す前に、構成とサイズを長く慎重に、異なる視点から視野を置いて思考しました。当作品の残りは処分され、スペースの床に投げ出されています。既に中村にとってこれらの必要性はないのです。

エンディングノートとして、東京のClear Editionギャラリーに対し、特に佐藤拓氏による本展覧会の準備への協力と援助へと感謝の言葉を述べたいと思います。


Joji Nakamura is an artist. He doesn’t do “the art scene,” he never went to art school, and quite honestly, he is not that interested in art theory or context. But he is an artist, nevertheless. In fact, he must be one of Tokyo’s most underappreciated artists—skillfully slithering on and off the radar—while prolifically producing some of the best Japanese abstract paintings currently available. And although his social circle includes some the best well-known artists of his generation, Nakamura carefully negotiates his position with them only as a friend, not as a member of the art community. He is only there for the laughs.

Nakamura would tell you himself he’s an artist. He decided to become one. His interest in art was triggered by friendships he forged with artists while living away from Japan in Santa-Barbara, California. He was inspired by their works and by their lifestyle. It fitted perfectly with his life and beliefs, with his interest also in music, and his other leisure pursuits that consisted of hanging out with punks and skaters. He never really cared about “being an artist,” he just wanted to be one. Without the politics and mechanics attached to the title. Just for the sake of making art. Being engaged in the process.

Upon Nakamura’s return to Japan he started to make his own art, inspired by artworks he has seen and friends he has made. The works are typified by spontaneous, emotional interactions with a surface—usually canvas or paper—instinctively marked with pen, pencil, or acrylic paints. The interventions are quick, unpremeditated, and fluid. When applying paints, he doesn’t use brushes—only his hands. The resulting images are fierce and confident, the lines have volume and the gestural shapes have body. Most of the works are monochromatic, often using only black and white, sometimes with an additional color, such as blue or red.

When I saw Nakamura’s paintings for the first time, they immediately brought to mind abstract expressionist art of the 50s-60s: the spontaneous painting methods of Jackson Pollock, the textures of Jean Paul Riopelle, and the compositions of Robert Motherwell; however, as I became more familiar with his works I came to realize that they are rooted more in the antiestablishment automatic abstracts of the Dada movement. Not the creation of art for the bourgeois but a rejection of systems and orders. This realization made me more fascinated with his works, especially his processes. How does he make his pieces, how long do they take to make, where does he make them, how does he edit?

After inviting Joji Nakamura to show at The Container, it became apparent to me that his exhibition must give an insight into the production process of his works. His reluctance to participate in “the artworld,” as much as his spontaneous techniques, are instrumental in understanding why he is an artist, as well as presenting his works in a new way that enables viewers to gain a new appreciation to them.

The focus of the exhibition, How I paint some of my paintings, at The Container is Nakamura’s impulsive and intuitive process of art making. The interior walls of the space have been covered with paper, making a continuous surface that is approximately 177 cm tall by 1,150 cm long, on which the artist, in a private performance of some sort, akin to a spiritual ritual, spent a day painting. The performance, recorded on video, gives insight to Nakamura’s personal and intimate relationship with painting and art creation, and documents his emotional and physical connection to his work as an artist.

The exhibited pieces in this show, acrylic paintings on paper in various sizes, are the selected segments taken from the large surface Nakamura initially painted during his action performance inside the container. Ironically, while the act of painting is so unpremeditated for Nakamura, editing is quite a different kettle of fish—Nakamura painstakingly considers and contemplates how to crop his works. He lingeringly deliberates on composition and size, tries viewing from different perspectives, before taking any decisions. The remainder of the painting is disposed of, discarded on the floor of the space. Nakamura has no use for it anymore.

As an ending note, I would like also to thank Clear Edition gallery in Tokyo, in particular Taku Sato, for the cooperation and support in preparation for this exhibition.



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Alexandre Maubert opening night reception & Holidays Season Party

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京都を拠点に活動しているフランスアーティストAlexandre MaubertのExhibition

A Place to Bury Everything I Did 

今回、MaubertによるThe Containerにおける展示は非常に実験的なものである。
The Container自体をピンホールカメラに換え、先日行われたパフォーマンスを撮影した写真を公開する。


12月5日Opening Receptionを行います。

それと同時に少し早めのクリスマスパーティーを開催致しますので皆様お誘い合わせの上、是非ご参加ください。




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この度,The Containerのpop up shopが虎ノ門ヒルズ森タワー内51階にあるAndaz Tokyoにて開催されることになりました。

これまでにThe Containerで展示を行ったアーティスト達の作品を販売する企画です。

是非お近くにお越しのご予定がございましたら、お立ち寄り下さい。

そして,
51階Andaz Tokyo lobbyにて行われているアーティストSuzanne Mooneyのインスタレーションも合わせてご覧いただけると幸いです。


日程:12月3日、4日
時間:11時〜18時
場所:虎ノ門ヒルズ森タワー内51階 Andaz Tokyo Toranomon Hills


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A Place to Bury Everything I Did

Alexandre Maubert

7 November, 2016 ? 23 January, 2017

 

Opening night reception: 7 November, 19:30 - 21:30

Live dance performance by Kyoko Nomura

Photographing

 

Opening night reception: 5 December, 19:30 - 21:30

Displaying works

Launch of publication

maubert_image_cl-1024x819.jpg[コピーライト] Alexandre Maubert, 2016.?Rehearsing with Kyoko Nomura.


「ハプニングと日常生活の間の境界は流動的に、そして出来るだけ不明瞭に留めるべきである。」

 

 アラン・カプロー

 

ドゥルーズとガタリが1972年にアンチ・オイディプスの中で「脱領土化」の言葉を作った当時は、21世紀の仮想世界を夢描くだけでした。脱領土化と仮想性の両方の概念は、その時ではまだ抽象的な哲学觀念であり、現代の資本主義文化とその流動性の中での人間の主観性の性質を示すのみでした。現在では、技術向上とインターネットの偏在、そしてスマートフォンと低価格での航空旅行によって、地域文化の独自性は徐々に緩い観点になってきており、実際の距離と独特な文化の違い ? 觀念論と美的価値 ? は更に段々と曖昧になっています。

日本の京都に居住するフランス人作家のアレクサンドル・モベールは、映画とビデオから写真、彫刻、絵画までの様々な分野にまたがる作品を通してこれらのアイディアを模索しています。時間と空間がどの様に、地域文化と実際の芸術作品の制作段階の場を繋げるかの要約が、モベールの最終的な展示作品で中心的な重要性を持ちます。

The Containerでのモベールの展覧会、A Place to Bury Everything I Did (自らの行い全てを埋める場所) は、展示作品の制作への道具として活用される、展覧会の空間である運送コンテナの、実際の構造が見られる時間ベースの写真によるインスタレーションです。モベールはThe Containerの制限された空間、形態、そしてほの暗い性質を利用して、本ギャラリーの空間を展示予定の写真シリーズを撮影する等身大のピンホール・カメラへと転換させます。マウバートの長期に及ぶライブ・パフォーマンス、音楽、そしてダンスへの興味がこれら作品の制作にて中心的な位置を占めており、観覧者は作家の当座しのぎな「アトリエ」の見物人、そして展示作品の制作への重要な貢献者になります。本展覧会は2つの異なる「初日イベント」を開催する予定で、一つは来客前での作品制作、そしてもう一つは実際の作品展示となります。

最初のイベントでは、観覧者は展示会スペースである実際のコンテナに入場することは出来ません。その代わりに、コンテナは閉扉して暗い状態を維持し、ピンホール・カメラとして機能します。そこでは実際のコンテナの壁に計算的にドリルで開けた多数の穴を経由して、空間を貫く光の光線が、一回に一度、光感応の写真乳剤で覆われた様々な表面へと像を捕らえます。

これら写真の主題は、日本人ダンス振付師兼ダンサーである野村香子(福岡生まれで現在は京都に居住)によるライブ・ダンスパフォーマンスであり、展覧会としてだけではなくアートの発生としてイベント中に観客の前で踊ります。二回目のイベントは一ヶ月後に予定しており、ライブ・パフォーマンスからの画像を展覧会場に設置する従来の展覧会となります。展覧会の期間中、画像は会場に展示されます。


“The line between the Happening and daily life should be kept as fluid, and perhaps indistinct, as possible.”

 

  Allan Kaprow

 

When Deleuze?and?Guattari?coined the term “deterritorialization” in?Anti-Oedipus?in?1972, they could only dream of our 21st?century world of virtuality. Both concepts of deterritorialization and virtuality, at the time, were still only abstract philosophical notions, denoting the nature of human subjectivity in contemporary capitalist cultures and its fluidity. Nowadays, with technological advances and the ubiquity of the internet, smartphones, and inexpensive air travel, local cultural identity is increasingly becoming a looser term, where physical distance and distinct cultural differences?conceptual and aesthetic?become more and more blurred.

Alexandre Maubert, a French artist residing in Kyoto, Japan, has been exploring these ideas through a variety of interdisciplinary works, from film and video, to photography, sculpture, and painting; encapsulating how time and space bridge between cultural locality, and where the actual art-creating processes take pivotal significance in his final exhibited pieces.

Maubert’s exhibition at The Container,?A Place to Bury Everything I Did,?is a time-based photographic installation that sees the actual construction of the exhibiting space?a shipping container?utilized as a tool for the creation of the exhibited works. Maubert takes advantage of the limited space, shape, and dim nature of The Container to turn it into a life-size pinhole camera to take a series of photographs that will be shown at the gallery. His long-standing interest also live performance, music, and dance, take center stage in the creation of these works, where the visitors become spectators in his make-shift “studio” and, indeed, key contributors to the creation of the exhibited pieces.

The exhibition will see two different “opening night events,” one to create the pieces in front of an audience, and another, to showcase the actual works.

During the first event, spectators will not be able to enter the actual container, the exhibition space. Instead, the container will remain closed and dark, serving as a pinhole camera, where rays of light penetrate the space through a numbers of holes, strategically drilled into the walls of the actual container?capturing images, one at a time, onto a variety of surfaces coated with light sensitive photographic emulsion.

The subject of these photographs is a live dance performance by the Japanese choreographer and dancer, Kyoko Nomura (born in Fukuoka, currently based in Kyoto), who will be dancing during the event, in front of the spectators, in what is more akin to an art happening than a private view of an exhibition. The second event, scheduled to take place a month later, will see a more traditional private view event with the images taken from the live performances installed inside of the exhibition space. The images will remain in the space for the duration of the exhibition.





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nibble, nibble, gnaw

Nadja Solari

18 July ? 3 October, 2016

Opening night reception: 18 July, 19:30 ? 21:30(Programme)?


Kindly supported by:
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[コピーライト] Nadja Solari, nibble, nibble, gnaw, 2016. Concept drawing.



「マリネッティは自らとフランセスコ・カンジュッロ、パオロ・ブッツィ、コッラード・ゴヴォーニから私に言葉の自由(Parole in Liberta)を贈った。これらはページ上のアルファベット文字に過ぎないが、このような詩は地図のように巻き閉じる事が出来る。この統語論はばらばらになっている。文字は散らばされ大雑把に再構成される。言語はもう存在しないと、文語的な占星家と主導者らは宣言する。これは再び発明される事が必要だ。創作においての深層部の崩壊権利である。」?1916年7月9日 フーゴ・バルDei Flucht aus der Zeit [Flight out of Time: A Dada Diary] (Munich, 1927) Trans. Ann Raimes. New York: The Viking Press, 1974. 25

 

意味ではなく話し言葉の音声を利用した芸術作風の音の詩は、ダダ運動のフィリッポ・トンマーゾ、マリネッティ、そして未来派によって受け継がれ、文字通りなダダ派の手法(modus operandi)の一部として発達しました。全体的にパフォーマンスに使用され、言葉の音は中心要素として称され、そしてバルの言葉で言う、詩の「神聖な最後の避難」であり「言葉の深層部の錬金術」として扱われました。

このようなパフォーマンスは、1916年にフーゴ・バルと相棒のエミー・ヘニングによって娯楽、芸術的で政治的な活動への場として設立され、芸術家、音楽家、詩人、作家が頻繁に訪れるスイスのチューリッヒにあるナイトクラブのキャバレー・ヴォルテール(Cabaret Voltaire)で中心的となりました。キャバレー・ヴォルテールでのこれらの催しは混沌とした物が主で、アーティストの第一次世界大戦への欲求不満と幻滅を表し、20世紀の美術史と作風を再定義しました。その為、ダダ運動100周年を祝う日本のダダ・フェスティバルの一環として、この夏にThe Containerで展覧会を開くスイス人アーティストのナディア・ソラリが、ダダ派の伝統である音の詩から彫刻的インスタレーションへと発想を得たのは驚く事ではありません。更に、ソラリがダダと音の詩からの引用で、現代技術とデジタル・プロセスから発想を描く事も意外ではありません。

The Containerでのナディア・ソラリの展覧会nibble, nibble, gnawは、現代デジタル時代のボットによって生成されたスパム・メールと音の詩の関係を構成する、ミクスト・メディア・インスタレーションです。スパム・フィルタープログラムの傍受信から逃れる為に裏をかこうとする、しばしばひょうきんな造語であるこれらメールの題名からの発想は音の詩と同類であり、本展覧会の主柱として利用されています。この過程の中で、これらの題名とメールは意味を消滅させ、ランダム、混沌的で新しい言語と、現代のデジタルと仮想現実の生成された詩であるダダ派著作の追憶を形成します。その成果は、現在デジタル生成システムに代変された、自動法(Automatism)と偶然性のような、多くのダダ派が創作に使用した手動技術と類似しています。

The Containerでの本展覧会は、個人と公共の境界に関連する問題を提示する為の、それぞれが異なる種類の回路・傾向・流れを持つ、又は連続する仕組みの、日常の事象のゆるやかな集合体です。作品は、実際のスパムメールから剽窃されたボット生成のスパムメッセージを有する、大きなハート型のジンジャークッキーで飾られています。この図像は、おとぎ話の象徴や寓意からの多くの関連性と共に、日常生活で習慣的に出会う広告、消費市場主義、スローガンやうたい文句から深く影響を受けています。

ダダ精神に乗っ取り、本展覧会はオープニング初日に行われる多様なライヴ・パフォーマンスによって更に彩られます。ソラリ演出による東京ヨーデル放歌会がボット生成された「音の詩」と伝統的メロディーを混合させ、スパムメールのヨーデル歌のライヴ・パフォーマンスを行います。その他のパフォーマンスは全てこの催しの超現実性と混沌性に貢献する物で、ライヴによるバグパイプ・パフォーマンスと、パフォーマンス・アートの演技を伴えた、新規での作曲によるピアノのクラシック音楽が含まれます。

図録・カタログであるこの出版物は、アーティストが本展覧会を作り上げる中で制作された関連イメージと主要語の感情地図であり、本展覧会の概念的な発達過程を表します。更にこの出版は、特別依頼による若年作家のショーン・メレンズの、ソラリの主要語やイメージから発想を受けた現代寓話の短編、埋葬されたお姫様(The Buried Princess)が掲載されています。この物語は、本出版物からのイメージや、ナディア・ソラリによって促進される物語の主要キャラクター「ヘレン(Helen)」からの投稿と、本出版物からのイメージが掲載される、theburiedprincessというユーザーネームでのインスタグラムのアカウントが伴っています。是非theburiedprincessを、アプリ上や同名に関連するハッシュタグを検索してフォローしてみて下さい。

本展覧会とこの出版物は、東京のスイス大使館の寛大な支援と援助なしでの実現は難しく、そして当ギャラリーはこの提携に対して非常に感謝の意を明し、そしてダダ100周年を祝う日本ダダ・フェスティバル参加への好意的な御招待を嬉しく思います。


“Marinetti sends me?Parole in Liberta?by himself, [Francesco] Cangiullo, [Paolo] Buzzi, and [Corrado] Govoni. They are just letters of the alphabet on a page; you can roll up such a poem like a map. The syntax has come apart. The letters are scattered and assembled again in a rough-and-ready way. There is no language any more, the literary astrologers and leaders proclaim; it has to be invented all over again. Disintegration right in the innermost process of creation.”?Hugo Ball, 9 July 1916Dei Flucht aus der Zeit [Flight out of Time: A Dada Diary]?(Munich, 1927) Trans. Ann Raimes. New York: The Viking Press, 1974. 25

Sound Poetry, the artistic practice of using phonetic sounds of speech rather than semantic meaning, was inherited by the Dada movement from Filippo Tommaso Marinetti and the Futurists, and evolved to be one of the most recognizable literary modus operandi of Dadaism. By and large used in performance, the sounds of words were awarded central importance and were treated, in Ball’s words, as the “innermost alchemy of the word,” the “last and holiest refuge” of poetry.

Such performances became pivotal to Cabaret Voltaire, a nightclub in Zurich, Switzerland, founded by Hugo Ball and his partner Emmy Hennings in 1916 as a site for entertainment, artistic and political activities, and frequented by artists, musicians, poets, and writers. Those nights at Cabaret Voltaire, typified by chaotic and horrendous performances, expressed the artists’ frustration and disillusion with World War I and redefined art theory and practice for the 20th century.

It is no surprise then that the Swiss artist Nadja Solari, who is exhibiting at The Container this summer to celebrate the centenary of the Dada movement, as part of Japan’s Dada Festival, took inspiration for her sculptural installation from the Dadaists’ Sound Poetry tradition. It is also not a surprise that Solari, in her references to Sound Poetry and Dada, draws inspiration from current technologies and digital processes. In the last decade her works have been strongly influenced both by new media and everyday objects ? the correlation and relationship we have with them as a society.

Nadja Solari’s exhibition at The Container,?nibble, nibble, gnaw, is a spatial mixed-media installation, constructing a connection between the contemporary digital-age bot-generated spam emails and Sound Poetry. Inspired by the subject lines of such emails, which are often a comical neologism that tries to outsmart the spam filtering programmes to avoid interception, is akin to Sound Poetry, and used as the backbone of this exhibition. During this process these subject lines and emails defunct semantic meaning and create a new language, random and chaotic, reminiscent of the Dadaists’ writings ? the generated poetry of our current digital and virtual realities. The result is similar to early 20th century poetry that many Dadaists generated through manual techniques, such as Automatism and chance, currently, replaced by digitally automated systems.

The exhibition at The Container is a loose conglomerate of everyday objects, each with a different kind of circuit/stream/flow, or a repeated mechanism, to raise issues relating to the boundaries between the private and public. The objects are adorned with over-sized heart-shaped gingerbread biscuits, bearing bot-generated spam messages lifted from actual spam emails. The iconography is deeply influenced by advertising, consumerism, slogans, and catchphrases we habitually encounter in our everyday lives, with a dose of associations taken from fairytales’ symbolism and allegory.

In the spirit of Dada, the exhibition is also enhanced by a range of live performances that take place during the opening reception of the exhibition. Directed by Solari, Tokyo’s Houkakai Yodel Club is performing a live act of spam mail yodeling, mixing traditional melodies with bot-generated “Sound Poetry.” Other performances include a live bagpipe performance and a newly composed classical music number for piano accompanied by a performance art act ? all to contribute to the surreality and chaos of the event.

This publication, an artist book / catalogue, is a mood map of associative imagery and keywords the artist generated whilst developing this exhibition, and it showcases the conceptual development process of the exhibition. The publication also sees an especially commissioned short story, a contemporary fairytale, written by the young author Shawn Mehrens,?The Buried Princess, inspired by keywords and imagery contributed by Solari. The story is also accompanied by an Instagram account with the usernametheburiedprincess, with images from this publication and posts from “Helen”, the main character of the story, facilitated by Nadja Solari. Followtheburiedprincess?on the app, or search for the hash tag bearing the same name.

The exhibition and this publication would not have been possible without the generous help and support of the Swiss embassy in Tokyo, and we are grateful for this partnership and delighted for the kind invitation to participate in Japan’s Dada Festival, to celebrate the centenary of Dada.




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The sky's the limit.


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Let's cut to the chase.

It was so amazing.


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この度、香港にて開催されるArt Central Hong KongにThe Containerが参加することになりました。

 

設営の為3月17日〜3月22日の間HOSHI、NUMANOが不在となります。

尚、営業は通常通り行っております。

お客様には大変ご迷惑をお掛け致しますが何卒よろしくお願い致します。

http://artcentralhongkong.com

 


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